こんにちは!ワイポケのKYONです。

こちらでは、私が経営する少人数制スタジオ事業についてのことや、仕事、そして人生の在り方についてお伝えしていきます。

第2子が生まれてから早1ヶ月が過ぎました。

スクスク育っているし、まだまだ先ですが、

・どんな子になるんだろうなぁ

とか考えたりします。

自分らしく育ってほしいなと思っています。

そんなところで、2人目の名前の由来を考えた経緯を話してみたいと思います。

「自分らしく」って言葉は正しいんですかね?

言い方を変えるなら?

「人と比べない」ですかね?

じゃあ

「人を見なくていい」ですかね?

「周りと比較しなくていい」なのかな?

確かに、誰かの人生を基準にして、自分の価値を決める必要はありません。

でも、

だれかと比較しないことと、他を見ないことは違うと思います。

なぜならみんな、

他人と関わるからです。

人と関わるから、自分の未熟さに気づく。

誰かと働くから、自分の得意なことがわかる。

誰かに迷惑をかけて、自分の振る舞いを考える。

誰かに必要とされて、自分にできることを知る。

人との違いによって、自分という人間の輪郭が見えてくることもあります。

そう考えると、他人とは「自分らしく生きるために排除すべき比較対象」ではなく、

”自分”という人間を知るために必要な存在になるはずです。

「自」だけを追いかけると、独りよがりになる

「私はこういう人間だから」

「自分らしくいたいから」

「他人にどう思われても関係ない」

こうした言葉は、個性であり、自分という存在を守っているように見えます。

ただその裏には、なんか身勝手さが感じてとれる気がしませんか?

他者の意見を聞かないこと。

相手に合わせる努力をしないこと。

自分の振る舞いによって誰かが困っていても気にしないこと。

のような、それらを「自分らしさ」と呼び始めてしまえば、

それは個性ではなく、ただの独りよがりになってしまいます。

自分とは、「独自の存在」でありながら、同時に「何かの一部分」でもあるんです。

家族の一員であり、

会社の一員であり、

地域の一員であり、

コミュニティの一員であり、

社会の一員でもある。

「自」だけで生きているように見えて、僕たちは必ずどこかの「分」として生きています。

「分」になれる人ほど、「自」が見えてくる

誰かのために動く。

チームの中で役割を担う。

家族の中で責任を持つ。

誰かに必要とされる。

ときには自分の思い通りにならないことを受け入れる。

こうした経験は、一見すると「自分を抑えている」ようにも見えますが、誰かや何かの「分」になろうとすることで、

自分には何ができるのか。

何ができないのか。

何を大切にしたいのか。

どんなときに譲れないのか。

どんな役割なら力を発揮できるのか。

そんな「自」が、少しずつ見えてきます。

たまにFIREして、自然や山にこもって社会と分断して俺は生きてるぜい!

というのも見かけると思いますが、

これは野生に帰ったというふうに見れば良いでしょう笑

今ここでは、「人間」としてを育てていくことの話です。

※別にFIREを否定しているわけではありません。めちゃくちゃいい生き方の一つだと思っています。

経験上、「自」を見つけるためには、「分」として生きる経験が必要だと思っています。

多様性も、自分らしさも、個性もめちゃ大切です。

でも、

本来の多様性とは、「みんな好き勝手に生きましょう」ということではないはずです。

それぞれ違う人間が、違ったまま、それでも同じ場所で生きていく。

だから難しいと思うし面倒くさいものです。

だから譲り合う必要がある。

だから自分を知る必要がある。

そして、そこに人間としての成長があるのだと思います。

誰かや何かの「分」として生きながら、それでも失われない「自」を持つ。

その両方があって初めて、

「自分」という人間がつくられていくのではないでしょうか。

2人目の子の名前は「仁泰」(じんた)といいます。

名前の中にある「泰」の意は、調和です。

だれかと調和しあいながら、関わる周りの人と自分。

この二つを大切に、人間を育ててもらいたいな。という意味を込めているんです。

最後まで読んでいただきありがとうございました。