こんにちは!ワイポケのKYONです。こちらでは、私が経営する、少人数制スタジオ事業についての事、仕事や自分の人生の生き方についてをお伝えしていきます。

今週、銀行で事業プレゼンをする機会がありました。

資料もちょいと頑張って作成し、普段とは少し違う緊張感のある時間。

いつもの通り、喋りが得意ではないので、プレゼンなんてうまくいかないんですが、

今日はこの、

人に理解してもらうために、どれだけ自分は想像できていたか

ということを話していきたいと思います。

伝えることと、伝わることの間

レッスンなんかの時もよくこんなことをかんがえています。

これは本当に相手に伝わるだろうか。という想像。

銀行員へのプレゼンもまた、しかり。

こちらの業界では当たり前の言葉も、相手にとっては初めて聞く概念かもしれない。

「正しい説明」をしようとすると、つい情報量は増えていきます。

しかし、情報を足せば足すほど、相手の理解度は上がるのか。

その問いに、明確な答えはありません。

必要なのは、

相手がどこでつまずき、どこで置いていかれるかを想像することではないかなと思います。

「伝える」とは、説明することではなく、

相手の頭の中にある地図に合わせて、言葉を配置し直す作業なのだと改めて感じました。

なので、一対一の対話においては、言葉選びは非常に重要だと思います。

ただ、一対多となった場合、この限りではないと思います。

だって頭の中の地図が何十枚もあるわけですから、言葉を選んでいたらキリがありません。

「言語7%・聴覚38%・視覚55%」

有名なメラビアンの法則ですね。

人は相手の言葉よりも、その背後にある姿勢や在り方を感じ取っている

という示唆です。

日々のレッスンで大切にしている感覚。として、

この法則は結構私は頭の片隅に入れています。

そして、グループレッスンではこの「相手を想像する力」を鋭くできるとも思っています。

つまり、人は身体感覚を共有できなくなると、想像力を失っていくのではないか

という感覚です。

同じ空間で動く。

同じリズムで呼吸をする。

うまくいかない瞬間も、疲れが出るタイミングも、同時に経験する。

レッスンで私が「思い切り共に動く」ことを選んでいるのは、その時間の中で、言葉以前のレベルで、

「相手が今、どこにいるのか」

を感じ取れるからです。

身体を通した共有があると、

相手を理解しようとすることは、

努力というより、ごく自然な反応になります。

一方で、身体感覚を共有しないまま、

言葉や正しさだけが先に進むと、どうなるでしょうか。

人は無意識のうちに、

「自分ならこう感じる」

「自分ならこう理解する」

という基準で相手を測り始めます。

そこには、相手の呼吸も、疲労も、戸惑いも存在しません。

あるのは、自分の中で完結した論理だけです。

この状態では、

相手の心を想像する力は、驚くほど簡単に省略されてしまいます。

例えば、周りにこういう事があったりしませんか?

・話が噛み合わない。

・説明しているはずなのに、伝わっていない。

・善意で言った言葉が、なぜか相手を遠ざけてしまう。

この違和感に

私たちはこう考えます。

「価値観が違うから仕方ない」

「考え方が合わない人なんだ」と。

しかし、心理学などの視点から見ると、問題は価値観の衝突ではありません。

人は、相手の感情や意図、理解の枠組みを想像する

「心の理論」という能力を使って、他者と関わっています。

このプロセスが省略されると、人は無意識のうちに、

「自分ならどう感じるか」

「自分ならどう理解するか」

という自分軸を基準に、相手を判断してしまいます。

結果として起きるのは、正しさの押し付けであり、誤解の量産です。

「言っていることは正しいのに、なぜか人が離れていく」

そんな現象の多くは、

相手の心を想像する工程が抜け落ちたまま、

言葉だけが先に進んでしまった結果だと感じています。

私は、いま多くの場所で起きている分断や摩擦の背景に、この「身体感覚の断絶」があるように感じています。

画面越しの言葉。

誰かが言った、言わない。他人を介した誰かのコミュニケーションや吹聴。

顔を合わせても、同じ時間を「共に過ごす」ことのない関係性。

そこでは、相手を想像する力は、どうしても弱くなっていく。

だからこそ、

正しさは簡単に武器になり、善意は簡単にすれ違い、

人は「分かり合えない存在」として切り離されていきます。

レッスンで身体を動かすことは、

単に体力をつけるためだけではありません。

同じ空間で、同じ時間を過ごし、

同じように汗をかく。

その中で、

相手の存在を「考える」のではなく、

感じる

この感覚がある限り、

人は簡単に相手を切り捨てることはできません。

ただ、話している相手より、

レッスンを共に過ごしている相手の方が、

親しみやすさ、安心感がありませんか?

私は、

人と人がつながるために必要なのは、

高度な言語能力や、洗練された理論ではなく、

身体を通して世界を共有しようとする姿勢なのではないかと思っています。

だから一緒に汗を流して!

身体を動かそうではありませんか!

言葉なんか、あまり必要ないかもしれません。

最後まで読んでいただきありがとうございました。