こんにちは!ワイポケのKYONです。こちらでは、私が経営する、少人数制スタジオ事業についての事、仕事や自分の人生の生き方についてをお伝えしていきます。
最近また、中居正広さんのニュースが出てきたりしていますね。こういったカルチャートークは賛否ありますので、ぜひ俯瞰してみていただければと思います。
芸能関係の話題など、私たちには想像や憶測の範疇であることが多いです。
実のところ、本当のことは何なのか。
それでも、SNSというコミュニティでは、
「正義か悪か」「是か非か」などが乱立します。
本当のところは誰も知らないのに。
人間は元来、特に日本人の傾向として、黒か白か、是か非か、勝ちか負けかという優劣や序列をつけたがると思っています。
この心理現象を「キャンセルカルチャー」といいます。
キャンセルカルチャーとは、
誰かの言動や過去の行為が不適切だと見なされたときに、社会的な制裁を加えたり、その人や団体を排除しようとする文化的現象を指します。
フジテレビと中居さんの話題を例に、(内容の是非はどうでも良い)このキャンセルカルチャーが起こる心理はなんなのか。
そしてこれらは会社や近所、スポーツジムなどのあらゆる人間関係の場で起こり得るし、よくあることだと思います。
私個人的には、この心理的要因として大きく5つほどあるかなと思っています。
1. 人間としての正義感と道徳的優越感の発動
•世間の声:「なぜこんな問題をフジテレビは隠そうとしたのか」「中居氏がテレビに出続けるのはおかしい」
・人々は、「不正を見逃さない正義の立場」をとることで、自らの道徳的優越感を強化します。
•実際の内容よりも、「正義に立つ自分」を示したいという欲求が先行する心理構造です。
2. 集団同調と炎上の拡散
・初期報道後、SNS上では「中居氏の出演番組への抗議」「スポンサーへの苦情」が急速に広がりました。
→これには「みんなが怒っているから自分も声を上げなければ」という同調圧力が作用しています。
特にSNSでは、批判に乗り遅れたくない・“仲間外れ”になりたくないという不安が、攻撃への参加を後押しします。
3. スケープゴートとストレスの転嫁
・社会全体に広がる不満(物価高騰、政界不信など)のはけ口として、中居氏のような有名人がスケープゴート化されやすい。
→「自分の人生はうまくいかないのに、有名人がのうのうとテレビに出ている」という潜在的不満が、怒りの爆発点となる。
・これは個人的ストレスを外部に投影する防衛機制のひとつです。
4. 匿名性と責任のなさが攻撃を助長
・SNSでのコメント:「気持ち悪い」「見たくない」「テレビに出る資格はない」
→匿名での発言が許される場では、普段なら抑制されるような激しい批判や攻撃も簡単に出てしまいます。
・自分の発言によって相手がどんな影響を受けるかという想像力や責任感が希薄になりやすい。
5. 情報の表層化・二極化
・SNSでは「悪い or 良い」の単純な構図で語られがちで、事件の詳細や背景は省略される傾向にあります。
→この報道でも、「金を払った=悪」と短絡的な結論が拡散し、議論が深まる余地がありませんでした。
・本来は事実確認や法的判断が必要な問題も、感情とスピードだけで処理されるのがキャンセルカルチャーの危険な点です。
批判すること自体は決して悪ではありません。
しかし、その批判が一方的で感情的になりすぎたとき、社会は「正義」を盾にした暴力に近づいていきます。
そして、たった一言、たった一つの情報が、人のキャリアや人生を簡単に左右してしまう時代に、私たちは生きています。
だからこそ、今一度考えたいのは、「誰かを攻撃することで、私たちは本当に幸せになれているのか?」という問いです。
情報に触れるときは、その背景や文脈を深く読み解く姿勢を。
誰かを批判するときは、自分がその立場にいたらどう感じるかという想像力を。
キャンセルするかしないかの“二択”ではなく、「その先にある対話や回復」に目を向けられる。
その一歩は、「誰か」ではなく、私たち自身の心の中にあるのかもしれません。
哲学者ソクラテスは「無知の知」を説きました。
「人は常にすべてを知っているわけではないことを自覚することが、真の知恵の始まりである」ということです。
この姿勢は、現代において私たちが他者を断罪しようとするときにも必要な視点です。
私たちは本当にすべての背景を知っているでしょうか? 感情だけで誰かを裁こうとしてはいないでしょうか?
また仏教でも、「縁起(えんぎ)」という教えがあります。
これは、すべての出来事や存在は独立しておらず、相互に関係し合っているという考えです。
中居さんの問題も、彼ひとりの責任で起きたことではなく、社会や文化、メディア、過去の経験、そして私たち自身の視線や期待とも深くつながっています。と思っています。(注:私個人の見解です)
キャンセルカルチャーの時代に問われているのは、「正しさ」だけではありません。
それ以上に、「いかに共に生きるか」という人間存在の根本的な姿勢です。
過ちを責めるだけでなく、再び歩き出す力を信じることができる社会を目指すべきかなと思っています。
その小さな社会→グループレッスンという集団でインストラクターは、
何を示していけるのか。
何を導けるのか。
それらを模索していくことで、分断されない一体となるレッスンが目指せると感じています。
いつまでも模索していきたいと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。